散歩道   樋口恭介


老夫婦が道を歩いている。歩き慣れたいつもの散歩道。しかしどうも様子がおかしい。男は疑問に思い、ふと足を止める。タイルの模様はこんなだったか、こんなところに塀はあったか。よく見ると、道の先は不自然に折れ曲がり、ぼやけた空間に吸い込まれているように見える。空間が溶け出しているように見える。年老いた男は自分の頭がおかしくなったのかと思い、妻の考えを訊いてみる。「なあ、何かがおかしくないか」と。しかし返事はない。隣を見ると、妻はいつのまにかいなくなっている。
そのとき、塀の影から一匹の猫が現れる。空間の溶解は継続している。その空間では、猫だけがはっきりとした姿を保っていた。
猫は鳴いた。すると道が失われ、塀が失われた。「まさか、お前」男は何かを言いかけ、そして言い終えることはできなかった。男の身体は失われ、一瞬の声が空間に響き、やがてその声も空間の溶解とともに消失した。
溶解した空間で猫はもう一度鳴き、それから空間の向こう側へと歩いていった。空間の向こう側からは、猫たちの高らかな鳴き声が漏れ聞こえていた。






樋口恭介
SF作家。『構造素子』で第五回ハヤカワSFコンテスト大賞を受賞